以前,何処かのインターネット上の記事で読んだのだが,一日に起こった悪かった事は一切記録せず,一日に起こった良かった事を,最低3つ意地でも見つけ,日記等に記録する日課を継続すると,精神状態の改善を図る事が出来るという.
「一体,何を根拠にそんな事を言っているんだ?」と思う方も多かったのかもしれない記事だったのかもしれないが,私は,合理性を感じた.
その科学的根拠を,以下に何点か提示しよう.
・根拠1
人間は認知科学的に言語化されていない事を認識出来ないと言う.
上記は,トンデモ科学者としてネット上では有名な,苫米地英人大先生の受け売りだが,これは,個人的には非常に頷ける話だ.
(※私は彼の事,結構好きですよ.勿論,性的な意味ではなく.)
例えば,日本人は「虫の声」を聴くことが出来るが,(※実はポリネシア人も「虫の声」を聴くことが出来る事が分かっている.)一般的な外国人には「虫の声」を聴くことが出来ないのだという.
外国人には,虫が発する「音」自体は耳には入っているが,その音を「虫の声」(言語)として認識出来ないのだと思われる.
このような事が起こる原理としては,外国人は虫が発する音を右脳で解釈し「音データ」として認識しているのに対し,日本人は虫が発する音を左脳で解釈し「文字(言語)データ」として解釈しているからではないかと言われている.
その,状況証拠として,日本人でも日本語話者ではない者は「虫の声」を認識できず,外国人でも日本語話者は「虫の声」を認識出来る事から,「日本語話者であるのかどうか?」が,「虫の声」を認識できるかどうかの一つの鍵になっている様である.
(※因みに,トンデモ科学者としてネット上では有名な,苫米地英人大先生は,外国人を日本に招いた際,風鈴の音について外国人に感想を訊いた際,そもそも,外国人は風鈴の音に気付いておらず,苫米地英人大先生に言われて初めて気付いたのだという.苫米地英人大先生はこの現象を「風鈴の音の"存在"を(言語化して)認識できていないからであり,音は鳴っていても"音が鳴っている"という存在を言語化して認識される事で,初めて音が聞こえている事を理解出来る.」という趣旨の解説していたが,これは「虫の声」の話からすると,個人的には若干的外れな解説(※間違いだと言っている訳ではないが,誤解されやすい.)に思え,実際には「風鈴の"音"を言語化出来ているのかどうか? により音が"存在"している事を認識出来るかどうかが分かれる.」という事だと思える.恐らく外国人が最終的に風鈴の音に気付く事が出来たのは,苫米地英人大先生は外国人の前で「ほら,風鈴の"チリーン"という音が・・・」の様な件で,擬音により言語化して外国人の前で説明したからなのではないかと,個人的には思える.そして,日本人には存在を指摘される前から,風鈴の音を無意識に言語化し,風鈴の音の存在を指摘されずとも認識し易いのだと思われる.)
日本語は確かに,諸外国語と比較し,使われる音域や文法なども含め,独特な言語体系に思え,もしかすると,日本人特有の神経質さは,そうした,普通は認識できない音を言語化する事で認識する能力があるからなのかもしれない.
上記の例は,言語化されていない物を,如何に人間が認識できないのかを説明する為の例として挙げた.
故に,「良かった」と思った事を言語化して記録するという事は,「良い体験」をしたという事を自分自身に認識させる為に,科学的合理性があると思える.
・根拠2
そもそも「良かった事」「悪かった事」とは何なのだろうか?
結局のところ,「何が善で何が悪なのか?」という線引きを定義する事は難しく,突き詰めて考えてみると,「実体としては善も悪も無い」という点に帰着されるのかもしれない.
上記に関しては,古くは仏教で問題提起されている事案でもあり,「摩訶止観」等にこの点に関する言及が見られるが,嘗ての人達も煩悩を繰り返した哲学の末「善も悪も無い」に帰着し,逆に善悪についてその先に何らかの真理があるとも言及出来ていない状況と思える.
では,その「良かった事」「悪かった事」との評価基準は何なのだろうか?
ここで,仮に「善も悪も無い」という難しい前提に立った上で,ある事象に対し「良かった事」「悪かった事」と人に依り判断が分かれてしまう状況を説明するモデルを提示する.
万物には人により
・「良い事」に判断出来る要素
・「悪い事」に判断出来る要素
を内包しているものとする.
つまり,「良い事」を見つけたければ,自分が「良い事」だと解釈できる部分を観測し言語化すれば良いことになる.
故に,「意識していなければ総評して人生最悪の1日」に感じていただろう日を「良い事が3つ位はあった日」に解釈する事も,上記モデルに当てはめる事で可能ではある.(※上記モデルが真理と主張している訳ではないが,実用性は十分にあるモデルと言えるだろう.)
・根拠3
近年,機械学習(ML)や人工知能(AI)の研究が盛んになっている.
「何故,ML/AIが,段々と,優秀な判断をするプログラムにプログラム自身が成長/進化する事が出来るのか?」という原理は,少し考えただけでは良く分からないかもしれない.
私は,その点で質問を求められたとき,以下の様な例を出している.
「車が10台並んで駐車してあるとした場合,それら車の所有者の男女比は何対何位だと思う?」
まぁ,大体5:5(1:1)の様な回答が返ってくる.
男女比から推測したと考えると,現時点では優秀な回答と思える.
そこで,続けて,私は訊く.
「では,その車のうち9台がピンク色でした.さて,それら車の所有者の男女比は何対何位だと思う?」
すると,大体,以下のような回答が返ってくる.
「ピンクの車に乗るって,女くらいだよな? ってことは,9台は女の車かな・・・ああ,そう言う事か.」
と.
情報を徐々に追加する事で,次第に最適解に近づくことが可能である事はこの時点で大体の人は理解できる.
こうしたものを,「ベイズ統計学」と呼ばれている.
私は,嘗て,エレキギターを習っていたことがある.
理由は,NEET時代に,郵便受けに,1レッスン無料でギターのレッスンが受けられるというチラシが入っており,無料ならと行ったところ,中々断り切れずにズルズルとギターを習い続けたからである.
今では,もうギターは辞めたが,そのギター教室の先生に言われた事は,私にとっては座右の銘の一つの様に,脳裏で意識されている.
「良い癖を付ければ良くなるが,悪い癖を付けてしまうと,それを取り払うのは大変な事だ.だから,最初は絶対に私の言う通りにして欲しい.」と.
ギターは辞めたから,とりあえずどうでも良いが,この話は,知性を持った人間には,知性を持ったコンピュータ同様,上記のベイズ統計学の様に良い癖は良い学習として体内に残り,悪い癖は悪い学習として体内に残ってしまう事に通じる.
私が何を言いたいのかと言うと,「良い事を観測し言語化して認識する.」という習慣を付ける事で,良い事が体内に蓄積される好循環が生まれると考える事は理に適っていると思えるという事である.
★故に,以下に,西暦2024年11月19日の良かった事を3つ提示する.
良かった事1: 事故に遭う事無く良かった.
良かった事2: 安眠出来て良かった.
良かった事3: 事件に巻き込まれる事無く良かった.